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陸軍99式極小航空写真機 |
大戦中に使用された航空カメラの資料は、現在日本にはほとんど残っていません。当時陸軍向けの航空カメラの主力工場は日本光学、小西六、東京光学、桂製作所でした。小西六での設計製造が主だったようです。あらためて各メーカーの広報部に問い合わせてみましたが、図面はおろか仕様書、説明書などのたぐいは全く残っていないようです。日本のカメラの歴史を綴った本は数多く出版されていますが陸軍96式、100式等を詳細に説明している本はどこにも見当たりません。それどころかその名称さえカメラ史から忘れられている様子です。航空カメラは特殊用途カメラですから一般のカメラと区別されてあたり前かもしれませんが、当時の軍用カメラこそ、その後爆発的に発展し、欧米人にして性能優秀と言わしめた純日本製カメラの、基礎を築いた立役者なのであります。一般に航空カメラは手持ち撮影用と機体に装着して使う垂直撮影用に分類されます。 極小航空写真機、小航空写真機は機上から手持ちで斜めに地上を撮影することを目的として開発され、小型軽量を設計の主眼としています。一方自動航空写真機は主に機体底面に垂直に装着して何枚も連続して撮る広域撮影を行うためのカメラです。 極小航空写真機は航空写真機としては比較的新しいものです。「極小」という名称は何かおかしい感じがしますが、それ以前に「小航空写真機」という名称がすでに存在したためでしょう。昭和10年から始まった試作には東京光学(現、株トプコン)、日本光学工業(現、株ニコン)、小西六(現、コニカ株)が参画し、昭和15年に99式極小航空写真機として制定されました。東京光学社史によれば昭和16年に187台、17年には313台を陸軍に納入し、同社の主力製品のひとつになっています。 このころの光学兵器の開発スピードはおそろしくのろく、計画から実戦装備まで5年はあたりまえだったそうです。極小航空写真機は日本カメラ博物館に保管されており、アポをとって実機を見ることができました。製造銘板には昭和17年7月製造、製造番号は305とあります。極小航空写真機はそのコンパクト性をもって偵察機のみでなく、戦闘機などにも携行し写真偵察以外の任務の時でも使えることを目的として開発されたものです。6x6ブローニー版のため3倍に引き伸ばすのを原則としていましたが、肝心の「拡大焼付器」が完備されていなかったため、当初の目的を充分に発揮できなかったと言う記録が「日本の光学工業史」に残っています。ちなみに当時の他の航空機写真機はほとんどキャビネサイズ以上の大判で、ふつう引伸しはせずにそのまま密着で焼き付けていました。 史料に「本航空写真機ハ極メテ小型軽量ニシテ機上操作容易ナリ而シテ使用ニ方イテハ之ヲ拡大焼付器ニテ三倍ニ引伸シ利用スルヲ本則トス」 と書かれており6x6には引伸しが必須であったことを裏付けています。 6x6フイルムのコマ数はいまと同じ12コマです。フイルム巻き上げはスプリングモーターつまりゼンマイ仕掛けで、カメラ底部に折り畳んだつまみがあり、これを起こしてよいしょよいしょと回してねじを巻きます。実機のフイルムカウンターを見ると11までしか標示がないので、一枚余裕を見ているのかと思っていましたが、史料によると12枚まで確実に撮れることがわかりました。いまでも立派に一般撮影の用途に耐えるようなマガジン交換式です。 レンズは東京光学製のヘキサ75mmF3.5、シャッターは「中心式露出機」、所謂レンズシャッター方式。無限遠撮影のため焦点距離は固定でフォーカスを合わせる必要はありません。35mmカメラ換算で50mmくらいの標準レンズと考えていいでしょう。フォーカルプーレンシャッターは動いている被写体に対してはひずみを生じるため、航空写真では一般にレンズシャッターが良いとされています。 この99式極小航空写真機ですが、外観写真は各カメラメーカーの史料その他の文献でよく見かけることがあります。比較的小型で大量に生産されていますから、これ以外に日本にまだ多数残存しているのではないでしょうか。ただし外観、塗装などは年代、製作所によってだいぶ異なります。戦前に作成されたものの方が幾分品質が良いようです。終戦の年まで量産されましたが、終戦当時は物資不足の影響でしょう、どうも品質が悪いような気がします。ただし量産効果によって当然後者の方が事故は少なかったと考えられます。 昭和8年頃から開発が開始された96式小航空写真機は純国産の本格的航空写機であります。構造が複雑で製作も困難、当初故障も続出したと言う記録が残されています。当時日本に保有していたありったけの技術を駆使して完成したカメラだと思います。その外観からしてもっとも航空写真機らしいデザインで、マシーンとしての魅力に溢れています。旧日本陸軍の宣伝映画で97式司偵にこの96式写真機をもって後部席に搭乗する偵察員のシーンを見ることができます。開発時期から推測すると、軍は初めから97式司偵での使用を狙っていたのでしょう。 ちなみに偵察用カメラに関しては飛行機同様に陸軍の方が海軍をリードしていたようで、海軍で初めて独自に小型航空写真機を富士写真、小西六に試作させたのが昭和14年ですから大分遅れています。この前から海軍ではK8と呼ばれる自動航空写真機は導入していましたが、これは完全なフェアチャイルド社のコピーでした。このため陸軍が官民一体となって開発した高性能カメラは海軍にも装備されたという記録も残っています。 この96式は日本光学が主契約製造会社だと言うことです。なるほど戦後のニコンにも通ずる高価でごっついと言うイメージがあります。(株)ニコンの社史には同四型というカメラの写真が掲載されていますから、改良が加えられて徐々に性能をあげていったのでしょう。レンズはテッサー型180mmF4.5で、像面にはカビネ版の乾板、シートフィルムあるいはロールフィルムを装填できます。これはマガジン式になっており、カセットのように交換して使用するものです。 ところでこの180mmというレンズですが、焦点距離を被写体距離で割って像の倍率を計算しますから(たとえば6000mの高度から200mmのレンズで垂直に撮影すればフィルム上に投影された像は実物の3万分の一)、焦点距離はきりのいい数字がいいのですが、180mmというのはどうも半端な数値です。当初外国製のレンズを使っていたのでしかたがありません。 小写真機とはいうものの総重量は9.7キログラムと書いてありますから、とても振り回せるものではありませんでした。 「・・・両手ニシテ握把及回転握把ヲ持チ両臂ヲ身体両側ニ引キ付ケ右目ヲ照準具覘視位置ニ置キ目標ヲ照準ス然ルトキハ自然ニ写真機ノ乾板倉上縁ヲ顎ニテ圧シ・・・」 と史料にあり、両手と顎を使ってカメラを保持するところが、この写真機の大きさを物語っています。ここで「回転握把」と言うのは、右手ハンドルが回転するようになっていて、回転によってレンズシャッターをチャージするようになっていました。90度右回りに淀みなく回転してから元の位置に戻すように説明されています。 面白いところではこの96式の頭の部分についている枠形の照準機の使い方が図とともに説明されています。これなど「教程」での発見のひとつです。視野枠とその前方にある三本の突き出した照星から成り、三本の照星を視野枠に刻んだ溝とうまく合致するよう右目を位置して覗けば撮影される視野が得られるというもので、その時の目から枠までの距離は約9センチとあります。きっと乾板倉に顎を置くとちょうどいい位置にくるのでしょうが、揺れる機上ではなかなか目標と一致させるのは難しそうです。これなどは写真撮影の技量に依るところ大で、カメラマンの腕の見せ所だったことでしょう。 その後96式から発展した陸軍100式小型航空写真機になってレンズも国産化が進み、200mmと400mmの日本光学製エアロ・ニッコールレンズ(または小西六製、東京光学製などあり)の交換レンズ式になりました。軍用カメラはいずれもレンズを保護するために、カメラ本体からレンズを包むようにフードが伸びていますが、100式ではレンズの全長に合わせてフードも伸び縮み可能な工夫が施されています。シャッターはレンズ交換式に有利なフォーカルプレーンを採用しています。100式はフェアチャイルド社のF8型モデルを参考に小西六で開発されました。小型軽量で使い勝手も良く昭和15年から20年まで生産された傑作機です。小型といっても判の大きさは96式と同じキャビネ版で、40コマのロールフィルムが使用されている以上、それによる制限はまぬがれません。フィルムはマガジン式ではありません。40コマのロールで十分と考えたのでしょう。96式よりもすっきりした外観で実用性を重視した設計です。 大航空写真機ついては手元に史料がなく詳細がわからないのですが、旧式で第二次大戦に突入してからは航空隊ではあまり使用されなかったものと思われます。昭和10年に日本光学で製作された大航空写真機は偵察気球に装備されたと社史に記録されています。 自動航空写真機については版の大きさは180x240mmと大きく、マガジンには幅240mm、長さ23メートルのフイルムが収納され、110枚の連続撮影が可能とあり、遠隔操作で使用するようになっていましたから、カメラには違いありませんが、その外観は装置と呼んだ方が言いえています。操作も電気絡みで複雑だったのでしょう陸軍の自動航空写真機はフェアチャイルド社のK8 を参考に昭和5年ころから小西六で製作されたもので、大戦を通して最初から最後まで主力機種として使用されました。偵察機に搭載するため生産に追われていた様子が、小西六の社史に載っています。当然100式司偵には積み込んでいたでしょう。先にも述べたように海軍ではK8そのままのコピーが永らく使用されていました。海外の写真機の技術がいかに優れていたか、日本がいかに遅れていたかが解ります。 当時の光学技術はとくに写真レンズにおいて大分遅れをとっていたようです。トリプレット型(イギリス)、テッサー型(ドイツ)、ゾナー型(ドイツ)などの名称でも分かるように主要な写真レンズは全て海外製でした。しかし第二次大戦を機にそれまで海外依存型だった光学技術は国産自主開発に切り替えられ、小型航空写真機などの実用的な国産カメラが実戦で活躍するようになりました。大戦後も国産のカメラ、カメラレンズは民需に支えられて発展し、カメラ後進国はやがてドイツをも凌駕するカメラ大国に発展したのであります。 <参考文献> 1.「兵器を中心とした日本の光学工業史」 2.「東京光学50年史」 3.「日本光学工業40年史」 4.「写真とともに百年」小西六写真工業発行 写真撮影協力:日本カメラ博物館 |
陸軍96式小航空写真機 |
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陸軍96式のファインダー |
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陸軍100式小航空写真機 |
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100式小航空写真機フイルム面 |
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海軍99式手持航空写真機 |
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